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総長紹介 | 川口総長の部屋

総長コラム 2011年12月

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創造的日韓関係を目指して-------日韓文化交流会議シンポジュウムでの発言から

 

 日韓文化交流会議の日本側座長を仰せつかってほぼ2年になる。この日韓文化交流会議は1998年小渕総理と金大中大統領の首脳会談で合意された「日韓共同宣言――21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」に基づいて、1999年に発足した。その日本側座長は作家で文化庁長官も務められた三浦朱門氏、韓国側は日韓交流に尽くされ日本でもよく知られた池明観氏であった。私が仰せつかったのは2009年の鳩山・李明博日韓首脳会談で合意された第3期の日韓文化交流会議の日本側座長である。韓国側の座長は、元東亜日報東京支局長で現在東西大学日本研究センター所長の鄭求宗教授である。第2期の座長が日本画家の平山郁夫氏であったことを考えると、日本の代表的文化人でもなく、韓国の専門家でもない私が錚々たる方々が務められた座長に推されたことには、甚だ恐縮した。かなりの大役であることは確かであり、どのように進めていいかも手探りの状態であったけれども、多くの方の期待を受け責任をもってお引き受けした。

 

 これまで、東京、ソウルで会議を開き、この9月末には京都で第3回の会議と合わせて、本学衣笠キャンパスで公開シンポジュウムを開くことができた。冒頭、私は座長として概要以下のような基調的な発言をした。

 

 1990年代末、韓国においては日本の大衆文化、映画やドラマ、流行歌などの公開が規制されており、金大中大統領は日韓関係の改善を目指して、その段階的開放を進めようとしていた。他方日本においては、政治的経済的関係はともかく、国民レベルの文化的な認識としては「近くて遠い国」であった。そうした中で、第1期日韓文化交流会議は日韓の文化交流の重要な意義を宣言し、日本と韓国は文化の「相互理解と相互受容」の段階に入った。2000年代以降韓国政府は順次規制を撤廃し、今日ではほとんど全面開放に近い状態にまで至っている。日本においてこの新しい段階の先駆けとなったのは、2000年の韓国映画「シュリ」の爆発的ヒットで、観客動員は実に120万人に及んだ。そして状況を一変させたのが2002年ワールドカップ日韓共同開催と2003年テレビドラマ「冬のソナタ」の社会現象と呼べるほどの流行であった。サッカーワールドカップは主に青年男性層の、そして「冬ソナ」は中高年層女性の圧倒的な支持を得た。そして、韓国ドラマ、ポップスは「韓流」として大きく広がり定着した。

 

 経済の目で見ると、2010年前後から日本の韓国理解は新しい様相を示しているように見える。2000年代を通して韓国経済は急成長し、その反面日本経済は長期の停滞をつづけた。 韓国産業はいくつかの分野での世界一を達成し、とりわけ電子機器メーカーであるサムソンは売上高世界一になるばかりでなく、その利益がパナソニックやソニー、東芝などこれまで世界に君臨してきた日本の全電子機器メーカーの合計を上回った。このころから日本のマスコミにおける「韓国に学べ」の論調が急速に高まってきた。私はこれを「サムソンショック」と呼んでいる。1980年代、日本の自動車産業の急成長にうろたえたアメリカが「トヨタショック」と呼ばれたことに通じるものがあると考えたからである。韓国企業の強さは、素早い意思決定、チャレンジ精神、激烈な競争といったものが挙げられ、企業のシステムというより広義の文化がその躍進の根拠との論調が多い。「韓国に学べ」の論調はバンクーバー冬季オリンピック女子フィギュアスケートのキム・ヨナをはじめとする韓国チームのいくつかの金メダル獲得とそれに対照的な日本チームの惨敗によっていっそう増幅された。2000年代の10年間、日本と韓国の国民レベルでの文化交流は明らかに新しい段階に入った、と考えてよいだろう。

 

 そこで、私たち第3期の日韓文化交流会議のなすべきことは日韓文化交流の次のステップ、その方向を示すことにある。その端緒はすでにこれまでの論議の中で語られている。そのひとつは、交流の内容やネットワークのより多重的で多面的な展開である。エンターテイメントやスポーツでの交流、商業レベルでの交流は進んだが、文学や芸術、学術、科学、といった面ではどうだろう。あるいは、市民・地域レベルや学術機関のネットワークはどうだろう。二つ目には、交流の方向は、相互理解、相互の文化の尊重の段階から、協働して創造する段階へと入って行くべきではないか、そして第3に、その担い手としての青年、学生の交流の重要性である。こうしたことを軸に、論議を深め、具体化を図りたい。 日韓文化交流会議は来年5月、ソウルでの第4回会議で両国政府ならびに国民への提言をまとめ、その任を終える。それまでの間にしっかりと準備を進めて行きたい。

 

 今年の秋はとても豊かな稔りの秋だったような気がする。奈良朱雀の我が家の門の脇にある細い柿の木が本当に6~7年ぶりに実をつけた。「たわわ」とはこのことを言うのだろうと思われるぐらいたくさんの実をつけ、枝が身の重さでしなってたわんでいるぐらいであった。収穫してみると、優に50個ほどもあった。自然の恵みに感謝である。

 

  柿たわわ門扉覆いてにじり入る

 

  熟柿待つ間もなくヒヨのえさとなり

 

  柿採りし二三個ほどは天のもの 

 

 

2011年12月

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